グザヴィエ・ドラン「マイ・マザー」「Mommy」

『マイ・マザー』の撮影中、僕は母を罰してやろうと思った。あれから5年しか経っていないけれど、断言できる。僕はいま、『Mommy』を通じて母の仇を取ろうとしている。理由はきかないでほしい。 

 グザヴィエ・ドラン監督作品第一作『マイ・マザー』と、最新作『Mommy』を観た。

 

 

『マイ・マザー』は、隣で食事をする母親の姿を画面に映しただけで、息子の母親に対する嫌悪をさらりと描きだす。このファーストシーンに思わず笑ってしまう。「ああ、あるある。分かる分かる。」続いて、息子を学校へと送り出す車中のシーン。ささいなことがきっかけで口論になってしまった息子に対し、母は怒鳴る。「そんなことを言うのなら、この車から降りなさい!」このシーンにも大笑いしてしまう。「ああ、あるある。分かる分かる。」この作品がカナダ人の作品であることも、フランス語の作品であることも、冒頭からまったく気にならない。こと子供が母親に対して持つ感情に関しては、文化も、場所も、言語も関係ない。普遍に直結している、そのことを冒頭の数カットで描き出す。とても感心する。

 

『マイ・マザー』で描かれるのは、母親への嫌悪と情愛だ。誰よりも身近な存在であるはずの母親が、自分とは決定的に相容れない他人である。そのことへの苛立ち、そして時々は、やり方を変えればこの関係をもっと良くできるのではないかという期待。けれどもまたしてもうまくいかないという現実。そして苛立ち。苛立ち。苛立ち。

 

母親に対して苛立ち続ける主人公は、母親と自分が他人であるということに絶望しきってはいない。母親の食事の仕方、ファッションセンス、休日の行動、倫理観、言葉遣い、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。その全てに苛立ち続ける主人公の感情を丁寧に紐解いていけば、きっと残るのはどうしようもない母への情愛だ。情けと、愛だ。幼い頃からずっと側に居た母親は、自分にとってその世界のすべてなのだ。すべてであるべき母親が、いつの間にか自分の王国の住人ではなくなってしまっている。そのことに主人公は絶望しきることができない。なんとか幸福な、自分の王国のたった1人の住人としての母親にアクセスできないだろうかと、もがいて、あがいて、あがいている。

 

翻って『Mommy』で描かれるのは、母と息子の決別である。そこに横たわる絶望の果ての絶望である。母親ダイは、息子スティーブを愛している。そしてその愛は、夢を見る。それは多動性発達障害の息子がその障害を乗り越え、社会に適応して生きる未来だ。ダイの愛は、未来を選択する。しかしその愛を、スティーブはきっぱりと否定する。映画のラスト・シーンで、スティーブが見つめているのは今だ。母親が選択した未来は、スティーブには必要がない。スティーブにとって未来など、かけら程の価値もない。スティーブの愛はいまここで、互いのすべてで愛しあうことでしかなく、いまここにある愛それ自体がスティーブの希望だ。彼の希望に未来なんていうしけた担保は、必要ないのだ。