PHANTOM 語られざりし物語

 

「人間の関係は、それは男女の関係でも、やはり『死ねば死にきり』ということで、それで終わってしまうでしょう。しかし、個々の人間は『死ねば死にきり』でも、一対の男女の関係は、どこかで救済したいという思いがあります。」(吉本隆明「遺書」)

 

オペラ座の怪人は、2004年の映画版を1度DVDで見ていただけだった。ウィキペディアによると、この映画はほぼアンドリュー・ロイド・ウェイバー版に依拠しているらしい。この映画を見たとき、物語の終盤、怪人の住処であるオペラ座の地下へ、灯りを手にした警察官が乗り込んで行くシーンがとても印象に残った。オペラ座の怪人としては、物語のクライマックスを終えた後の、なんということもないシーンだけれど。たまたまその直前に観劇していた「オセロー」(蜷川さん演出で蒼井優ちゃんが主演だった)のラストシーンとダブったからだ。

 

「オセロー」の終盤、デズデモーナの死体が横たわる部屋に、オセローはひとり取り残される。そして彼は自らの猜疑心が殺してしまった愛する女へ、嘆くように祈るように語りかける。その後で、彼とデズデモーナのいる部屋へ、役人たちが乗り込んでくる。彼らはオセローにことの真実を聞き、イアーゴーの罪が裁かれ、物語は決着を迎える。この場面で役人たちが部屋へと入ってきた瞬間、オセローのデズデモーナへの愛が、異質な物へ変化したように感じたのだった。

 

愛というのは、まったくもってプライヴェートで、野蛮で、危険な感情だ。それは愛する相手そのものを殺しさえし、そこに明確な意図や論理はない。そういったものはそこには存在することができない。だからそれが愛だということさえ、ひょっとしたらはっきりと断言することはできないかもしれない。愛なのか愛ではないのか、その判別がはっきりとついてしまうようなものは、愛の範疇ではないのではないか。そのような原始的な情のようなものだけが濃密に立ちこめるオセローとデズデモーナの密室に、役人たちが入ってくる。物語は終わらなくてはならない。謎は明かされ、罪は裁かれなくてはならない。けれど謎が明かされ、罪が裁かれ、その謎と罪とを解き明かす文脈の上にデズデモーナの死がおかれたとして、オセローにとってそれが如何ほどの意味を持っただろう。それは彼にとって既にまったく関係のない、別の世界の言葉だったのではないか。愛と社会性とは、悲しいほどに断絶している。そのことを、悲劇と呼ぶのではないか。

 

そのようなことを考えたとき、「オペラ座の怪人」のラストシーンを思い出したのだった。怪人とクリスティーナの濃密な情のやりとりの後で、手に灯りを携えて、怪人の住処へ乗り込んでくる警察官たち。彼らはその情のやりとりを、白日の下にさらそうとしている。そして社会性という灯りの名のもとに、その謎を解き明かし、彼らを裁こうとしている。私は祈るように思った。どうか怪人がそこから無事に逃げ仰せられますように。彼のクリスティーヌへの思いが、どのような他者からも裁かれることがありませんように。

 

ま前置きがとても長くなってしまった…(汗)

 

上記のような視点をもって「オペラ座の怪人」を観た私にとって、スーザン・ケイの「PHANTOM」は夢のような作品でした。至る所で、ガストン・ルルー原作本の薄い本(笑)な表現を目にしましたが、なるほど、確かにこれは薄い本だ!めっちゃ分量あるけど!!怪人の罪を裁くはずの警察官がエリックの友人ナーディルである、という設定に膝を打ちました。彼がラウルに「ここに居らして下さい。今はそこに貴方の居る場所はありません。これに関してはなんの権利もありません」と言い放った時、「そう、そうなの!私もエリックにそれをしてやりたかったの!」と尋常じゃないテンションで共感してしまったので、ナーディルは我らエリック派の代弁者として、スーザン・ケイによって物語世界に送り込まれたのに違いない。

 

オペラ座の怪人」って、クリスティーヌの心がどこにあったのかというのがとても曖昧で、それをどのように解釈するかによって趣がちがってくる作品だと思います。私はどうしても怪人に肩入れしてしまうので、スーザン・ケイのやりたかったことはとてもよく分かるような気がする。エリックとクリスティーヌの間の感情に名前がつかなければ、ラウルすらも介在させることのない、二人だけの時間をエリックとクリスティーヌに与えてあげることさえできれば、このような結末があり得たかもしれないって。

 

この物語のエリックの人生を考える時、それはクリスティーヌとの愛の絶頂へ向かって、一直線にスパークしていくような、ある種理想的な人生だなと思います。悲恋を別の角度から描いて行く方法として、時間軸を操作して、悲恋に終わってしまった現在から、愛がまさに生まれた瞬間の過去へさかのぼっていく手法(桜庭一樹「私の男」とかオノナツメ「not simple」とか)がありますが、時間軸を操作せずともエリックの人生はそうなっている。山本エリックは、ある種の達観と老成が感じられる幼年期(とても異様ですごかった、この少年時代…)から、クリスティーヌとの愛によって思春期の少年に戻っていくような変化が印象的でした。少しずつ少年らしくなっていくエリックが、とても愛おしかった。あとすんごい華麗な役者さんだなって。孤独とか絶望とか焦燥とかっていう陰鬱なものが、山本さんの手にかかるととても華麗なものとして舞台に現出するのに惚れ惚れしてしまいます…。

 

マツシンさんは技巧的なものを駆使するというよりも、全力でストレートな表現をされる役者さんだと思っているのですが、物語の心臓をぐっと掴む場面で殊に輝く方だなと思っていて、そこばっかりいっつもリピしちゃう。今作だとエリックとのキスのシーン。物語の心臓への切り込み方がとても真っすぐで、その真っすぐさに胸打たれるんですなんだかいつも。

 

この記事の冒頭の言葉は、吉本隆明さんの「遺書」という本の中に出てくるものなんですが、それはこんな風に続きます。

 

「その終わりのときに、二人の関係に『はじまり』の要素が出てきたら、それが救済なのではないか。終わりに近くなればなるほど、二人の間に『はじまり』の要素が出てきたら、たいしたものではないでしょうか」

 

吉本隆明さんの恋愛に関する言葉はとてもロマンティックなものが多くて大好きなのですが、これは特に好きな言葉です。そして、この物語のエリックとクリスティーヌはこの言葉の理想とするところ、そのかなり近くにいる二人なのではないかと思っています。スーザン・ケイのエリックはとても幸福ですね、こうなってくるとちょっとラウルに肩入れしたくなるくらいだわ(笑)